ぬくもりに咲く花
ぜるえり
「あの男は、誰だ?」
声は低く、剣呑な色を帯びていた。決して荒げられてはいないのに、それがむしろ押し殺した感情をまざまざと感じさせる。
そこは薄暗い部屋だ。けれどよくよく目を凝らしてみればベッドが、テーブルが、タンスが見える。一般的な家庭の寝室。そこに、人影は二つあった。男と女。向かい合い、じっと見つめ合っている。抜き差しならぬ緊張感がびりびりと空間を満たしていた。
「……だんまりか」
押し黙る女に、彼はふう、とわざとらしい溜め息を吐く。
「あんたが誰のものか、教えてやる必要があるみたいだな」
男の眼鏡の奥で目が細められた。その手が首もとできつく結ばれたタイを解く。しゅるりと音を立てて床に落とされたそれを女の視線が追う前に、彼は目の前の女を捕らえた。女の目に見えるものが彼の真剣な眼差しだけになる。しばしの沈黙。何も言わない女のその首筋に、彼は噛みつくように唇を落とした。ちゅ。小さく音がする。女の唇から吐息が漏れた。にやりと彼の口元が歪む。そうして、その唇は今度は彼女の胸元へと──
「待て待て。なんでこんな集合してんの」
ぱっと部屋に明かりがついた。そうして心底嫌そうな彼の声。その場に居た全員が未だ暗い部屋で逢瀬を続ける二人──の映るテレビから、野暮な明かりをつけた人物へと振り向いた。そこには女を剣呑な目つきで責め立てている男と全く同じ顔をした人物が立っている。
「おかえり、大和さん」
「おー、ヤマさんおかえり」
にっかり笑っての第一声は、若手アイドルグループ、IDOLiSH7所属の和泉三月だ。その隣で子供ほどもあろうかという大きさの王様プリンクッションを抱き締めているのは同じくIDOLiSH7の四葉環。大和はその二人の向こうで未だ垂れ流されている自分の出演作品を抹消すべく、リモコンを探し視線を彷徨わせた。四角い枠の中では大和が女に独占欲をぶつけるくだらないシーンが流れている。この後もっと過激なラブシーンが始まると誰よりも知っている大和にとって、テレビを消すかチャンネルを変えるのは急務だった。本人を目の前にラブシーン上映会なんてどれだけ悪趣味なのか。しかも、それを見ているのは三月と環の二人だけではなかった。
「大和さん、お疲れ様です!」
可愛らしい声音は、この場では異質に響く。ふわふわした色素の薄い髪に、きらきら輝く瞳。少し興奮したような口振りと紅潮した頬は、もしかしなくても映像を見てのものなのか。大和はさらに脱力してしまう。
「なんでマネージャーまで居んの……」
それは間違いなくIDOLiSH7のマネージャー、小鳥遊紡その人であった。
ここ──大和たちが居を構える小鳥遊事務所管理寮──に女性入居者は一人も居ない。つまり彼女はわざわざ、何かの意志を持って、こんなにも夜遅く、男ばかりの場所へやってきたということであり。
「今日、ヤマさんの映画やっから、呼んだ」
環がとてもとても良い笑顔でぐっと親指を立ててくる。その顔にはわかりやすく褒めてもいいぞと浮かんでいて、大和は環と状況の見解に相違を感じた。
「僭越ながら、お呼び頂きました! あ、もちろん録画もばっちりしてますから!」
「あ、あー、そう……あんまり遅くなる前に帰んなさいよ……」
なんだか頭が痛い気がする。こめかみを揉みながら大和はかろうじて笑顔を保った。ここで取り乱したら年長者の威厳が保てない。スマイル。スマイルだ。
「まぁまぁ! そう照れんなって! 大和さんのせっかくの勇姿じゃん!」
「ミツ、お前まで……」
「ヤマさん、映画館ぽくして観てんだから電気消せって」
「ああ、だから消してんの……」
そんな風にじゃれていたら、いよいよ本格的なラブシーンが始まってしまった。女の服が大和の手によって脱がされる。白い肌が薄暗い部屋の中に際立ち、おお、とギャラリーにどよめきが走った。大和の口元には苦い物がべったり貼り付く。
この作品は劇場版作品で、意図して地上波のものよりもより過激な表現が採用されている。テレビ放送にあたってどれくらいそういった、端的に言ってしまえば性的なシーンをカットするのかはわからないが、さすがにどのレベルでも目の前で観られるのはきつい。
「お兄さん、部屋戻るわ……」
そんなわけでそそくさと退散を宣言すれば、
「メシは?」
と、三月が何気なく尋ねてくる。
「あー……何かある? なければコンビニ行ってくる」
「今日、カレー」
「お。いいね」
三月はあいよと笑うと、すいと立ち上がり台所方面へ消えた。こういうところは本当頭が上がらないな、と思う。大和がそんな小柄だが大きな背中を見送っていると、
「なあなあ、ヤマさん」
「なんだよタマ」
「これ、噛みついてんの?」
何が? 環に示された先を見れば、画面の中の大和が女優の首もとから胸元にキスマークを付けまくっている。うわ、と思わず声に出してしまった。そんな大和に構わず環はごくりと喉を鳴らして、恐る恐るといった感じで続ける。
「すっげー痛そう……」
「あー、いや、これは噛んでるんじゃなくて、吸ってるというか」
「吸ってんの!? 痕ついてっけど……もしかしてヤマさんって、すげー吸引力 ある?」
「いや、これはフリだけで痕はメイクで付けてるだけだから……てかなんだよ吸引力って、掃除機じゃねぇぞ!」
環とそこまで話して、ふと(──あ、やべ)我に返って紡の方を見る。もしかして、もしかしたら、好奇心旺盛な十代男子はともかく十代女子には少し刺激が強い話題かもしれない。
大和がそんなことを考えながらちらと視線を送るとしかし。当の紡は画面を食い入るように見つめていて、大和たちの戯れ言は一切耳に入っていないかのようだった。自分のラブシーンをそんなに食い入るように見られるとさすがの大和でも照れたくなるが、彼女の視線は仕事中の如く真剣そのもので、えっちなシーンが恥ずかしいだとか、大和をからかおうだとか、そんな気配は微塵も見当たらなかった。
「……おーい、紡? 紡さん?」
そのあまりのひたむきさに思わず声を掛ければ、彼女はハッとしたようにこちらを見る。
「はい、なんでしょうか!?」
「あ、いや。そんなにじっと見られると、さすがのお兄さんでも恥ずかしいというか」
「恥ずかしがることありませんよ! 大和さんの演技は本当に素晴らしいです!」
興奮したような口調に大和はどんな顔をしたらいいのかわからなくなる。大和の内心を余所に彼女の口は止まらない。
「演技だとわかっているはずなのに、本当に彼女のことを愛しているようにしか見えません! 特にこの、これまで抑圧されてきた大和さんの怒りをひとつひとつ刻みつけるかのようなシーン……! 視線から指先までじっとりと熱を持つ演技が生々しくてまるで目の前で情事が行われているかのような臨場感! でもその生々しさこそがより物語に深みと説得力を与えてますよね!」
次々と滝のように言葉が溢れてくる。ぎゅうと握りしめた両拳を微かに上下させながら、紡はきらきらしていた。
大和は以前、先輩アイドルグループ、TRIGGERのリーダー、八乙女楽が飲み会の場で言っていたことを思い出していた。曰く。紡は演出について語り出すとかなり熱くなる。本当にその通りだと思った。ついでに、奴がその言葉の後にたっぷりと幸せを滲ませたような笑顔で「そういうところも、かわいい」とかなんとか言っていたことも思い出してしまったが、それは置いといて。
「あー、あー。オホメニアズカリコウエイデス」
ミツのやつ、カレー、まだなのか。リモコン探しを諦めた大和がぐったりしていると、なあなあ、とのんびりした声が割って入った。
「マネージャーは、つけられたこと、ある?」
「え?」
きょとん。紡が目をぱちくりさせる。彼女のその虚を突かれたような反応を全く気にせず、環はこう続けた。
「だから、これ。こういうの、付けられたことあんの?」
これ。大和の目の前で環が指さす。それは当然のようにテレビであり、もっと言えば大和と絡んでいる女優であり、更に言えばたっぷりとキスマークを付けられた彼女の首筋だった。
「──あ! ありませんよ!!」
瞬間湯沸かし器のようだった。紡の顔が一瞬で真っ赤に染まる。先ほど演出を語っていた時も十分頬が赤いと思ったけど、訂正する。今の赤さはその比じゃない。
「ふーん。女はみんな、あんのかと思った」
「そ、そんっ……そんなこと、ないと思います……!」
「そうなの?」
「そうなの?」
大和が環に重ねて尋ねれば、紡は「もう! 大和さんまで!」ぴゅーと頭から湯気を吹きながら真っ赤な顔で怒りを示す。大和の中でちろりと悪い顔をした誰かが笑った。
「……ふーん、へーえ、紡はケーケン無いんだ?」
「ありませんてば!」
「そういうの、興味無い?」
「きょ、興味って……!」
もはや自分のラブシーンがどうこうなんて大和にはどうでもよくなっていた。そんなものは完全に意識の外へ追い出して、紡の隣、元々三月が座っていた空席によっこらせと腰を下ろす。そうして未だ真っ赤な頬の紡にふふんと笑いかけて見せると、
「お兄さんが付けてあげよっか、キスマーク」
意識して、甘く。後半は吐息に溶けるよう、囁いた。
「…………っ!」
紡は鋭く息を飲み、反射的に身体を引く。おー、ヤマさんエロい。とかいう観客の声がした。
「ホントは興味あるんじゃない? 大丈夫、お兄さん、上手いから」
彼女が引いた分よりほんの少し多く身体を近付ける。顔が近くなったことで紡が「あの、えっと」動揺してもごもご口走るのがすぐ近くで拝めた。かぁわいい。大和は胸の中でくつくつ笑う。こんなにかわいい反応されると、ますます意地悪したくなっちゃうよなぁ。なんて言ったのはもちろん胸の中でだけ。大和は駄目押しのように紡にだけ聞こえるような小さな小さな声で、
「何事もケーケンだよ、ケーケン。本命の前で失敗したくないでしょ」
瞬間。紡の瞳が大きく見開かれる。おや? と大和が思っている間に、彼女の視線はゆるゆる落ちた。そうして大和の床についた手の辺りを見つめながら、紡の口元は何やらむにゃむにゃと「………………ます」呟いた。その内容に大和が口を開き掛けたところで、
「大和さん! カレー温まったぞ!」
大きな声が割って入る。振り向けばそこには可愛らしいキッチンミトンで鍋を掲げ、力一杯ジト目の三月。その視線が言外に「おっさん何やってんだよ」と語っていた。
「うわ、めっちゃ良い匂い! 俺も食いたい!」
「ばか! お前はさっき食ったろー!?」
「えー!」
観客が今度はカレーに騒ぐ。ふと、そのじたばたする足下に探していた姿──リモコンを見つけて、大和はそれを手に取った。チャンネルをバラエティに変更しながらにこにこ笑う。
「タマは育ち盛りだからな。一緒に食おうなー?」
「さっすがヤマさん、話わかる!」
「おっさん、甘やかすなよー」
やれやれと三月が肩を竦めるのに笑いながら、大和はよいしょと立ち上がる。
「マネージャーも一緒にどう?」
大和がさっきまでの出来事なんてまるで無かったかのようないつも通りの口調で話しかければ、紡もまた、ゆるゆるとジト目になる。
「あ、怒った?」
「……大和さんのそういうところ、良くないと思います」
「悪い悪い。紡がかわいくて、つい。ミツの美味しいカレー、一緒に食べようぜ」
両手を上げ、冗談だよ、許して? と全身で示して見せれば、むうと紡はうなり声をあげる。いかん、少しやりすぎたか。内心ちろりと舌を出すと、紡はまるでそれを見抜いたかのような視線を寄越す。
「いつかきっと痛い目見ますよ」
「肝に命じます」
からから笑う大和に、もう、と頬を膨らませると紡はさっと立ち上がる。どうやら三月の配膳を手伝うらしい。
その可愛らしい背中を眺めながら、大和は内心にまにま笑う。
(……『そういうことは、好きな人としかしちゃ駄目だと思います』ね。いやほんと、かわいいわ)
*
「…………ってことがあってさー」
なんて上機嫌に言いがら、大和は目の前の枝豆に手を伸ばした。ぷちぷち口に含んでは軽快にビールを進めるものだから奴のジョッキの中身はすでに半分以下になっている。
一方、自分の手元のジョッキはほぼほぼ満タンの状態であり、取り皿の上の唐揚げもシーザーサラダもしじゃもの一夜干しも全くもって減っていない。
それに気付いたらしい大和がちらとこちらを見て、瞬間、猛烈に嫌そうな顔をした。
「八乙女、こえーよ。それ抱かれたい男ナンバーワンの顔じゃないから」
苦言を呈された男──八乙女楽は、それにより更に眉間の皺を深くする。大和は「あのねえ」なんてあからさまに溜め息をついて半眼になった。
「そもそも自分から言い出したんだぞ。『最近の紡がどんな様子か聞きたい』って」
「そりゃそうだけどよ!」
思わずがなってしまってから楽はハッと我に返る。猛烈に沸き起こる決まりの悪さをジョッキの中身と共にぐいと飲み干した。
そうだ。大和の言い分は正しい。
奴の所属する後輩アイドルグループ、IDOLiSH7。その担当マネージャーである小鳥遊紡の話をせがんだのは他ならぬ楽自身だ。
──隠すつもりも無いことなのだが、楽は紡のことを個人的にとてもとても気に入っている。
そのうさぎの耳みたいにふわふわした髪も、きらきら輝く瞳も、いつも前向きに一生懸命IDOLiSH7を支え、彼らを絶対的に信じ抜く強い意志も。何もかもが可愛くてたまらないし、非常に好ましく思っている。
楽は元より気に入った人間に対し何かと構いたがる性質だ。姿を見掛ければ話しかけるし飲みにも誘うし家にも招く。ただでさえそんな性格なので、ことさら気に入っている紡に対してはより一層食事に行楽にと誘うチャンスを狙ってきた。
けれどここのところはお互い多忙で全くと言っていいほど顔を合わせていない。現場がIDOLiSH7と近いと聞き急ぎ仕事を終わらせて駆けつけても後ろ姿を拝むのがやっとというくらいで。
もちろんラビチャでは頻繁にやりとりしているものの、それだけでは足りないと思ってしまうのだ。
だからつい大和に尋ねてしまった。最近紡がどうしているのかと。……まさかこんな話をされるだなんて思いもしなかったけど。
楽はぎりぎりとジョッキの持ち手を握り締めながら、
「俺はもっとこう……日常的というか、雑談というか、そういうのが来ると思ったんだよ」
「何言ってんの、これが俺らのフツーよ?」
「だとしたら問題過ぎるだろ!」
楽の剣幕に押されて、冗談だよ、と大和が苦笑いする。
「ちゃんとそういう線引きはしてるって。紡も冗談だってわかってると思うしさ」
「…………紡の親父さんの前でも同じこと言えんのか?」
大和は「あービールうまいなー」楽の質問を無視した。小鳥遊事務所の社長は相当なやり手のようだ。
「いや、けどさぁ」
少なくなったジョッキの中身をくるくる回しながら大和は声をワントーン落とす。
「実際、あんなウブじゃ心配しちまうよなぁ」
その急に作られた真面目な雰囲気に、楽は若干面食らってしまった。
大和はぽつりぽつりとまるで独り言のように黄金色の液体に向かって続きを口にする。
「あの年の女の子じゃ、どんな仕事だってセクハラ食らうことくらいあるだろ。特にこんな業界だし、ある程度笑って流せるくらいじゃないと本人がつらいんじゃないかって思っちまうな」
「二階堂……」
楽たちが身を置くこの世界は、決して華やかで綺麗なものばかりでは無い。光か強くなればなるほど影が色濃く浮かび出るように、人に夢を見せる表舞台のすぐ傍に醜い裏側が潜んでいる。
──けれど。
「紡は強い女だ。きっと大丈夫だろ」
楽が確信を持ってそう言えば、大和は一瞬ぽかんと口を開けた。それから、ゆっくりと、やんわりと、目を細めて笑う。
「そうだな、俺たちが信じてやんなきゃだよな」
そうして大和は「まあ」わざとらしく大きな声を出した。
「案外彼氏とか? 出来たらすーぐ慣れちゃうかもしんないけどな!」
びくり。楽の身体が大きく跳ねる。
そんな楽を見た大和は、にっこりとさわやかで朗らかで邪悪な笑みを浮かべた。
「なあ? 八乙女もそう思うよな?」
「な、なん」
「ぎゃはは! お前さん顔真っ赤!」
からから爆笑してから大和はビールの残りを飲み干すと「すんませーん、ビールおかわり!」空のジョッキを掲げて見せる。
楽はなんだか猛烈に顔が熱くて、ジョッキにたくさん入っていた中身をぐいと一気に煽った。うわ、良い飲みっぷりーなんて声を無視して「おかわり、ふたつな!」同じように手をあげる。
*
そんな飲み会から明けて、今日。
楽は局の控え室で出番を待ちながら、今度主演するドラマの台本を読み返していた。
昨夜つい飲み過ぎてしまったせいで若干二日酔いの気があるが、普段そんな楽に真っ先にお小言をプレゼントしてくれるTRIGGER不動のセンター、九条天も、楽と天が小競り合いをし始めたら止めてくれるTRIGGERのお兄ちゃん、十龍之介もここにはいない。
「…………マネージャー、遅いな」
ぽつりと呟いた声は誰も居ない空間にほろりと溶ける。
本日の楽の付き添い、TRIGGERの敏腕マネージャー姉鷺カオルは、予定時刻になっても一向に始まらない撮影に痺れを切らして、
「ちょっと文句言ってくるわ! ここに居て頂戴!」
と、ぷりぷりしながら控え室を出ていったきり戻ってこない。撮影が押すなんてよくあることなのだから、そんなに怒らなくてもいいのにな、なんて楽は思う。
一人が寂しいというわけではないが、手持ち無沙汰ではある。楽は台本をテーブルへ放るとジャケットからスマホを取り出した。手早くロックを解除して、ホーム画面の一番使いやすいところに置いているラビチャのアプリを立ち上げる。
(紡、何してっかな……)
頭の中に彼女の姿を思い描く。小柄な体躯、可憐な声、きらきらと輝くような笑顔。自然と楽の口元に笑みが浮かんだ。
『紡、お疲れ。今日も仕事か?』
するすると液晶に指を走らせて、そんなメッセージを入力する。
思えば文字入力も随分と早くなった。雑誌のインタビューに「スマホはあまり弄る方じゃない」なんて答えていた楽はもうどこにも居やしない。今は暇さえあればすぐ取り出してしまうし、ラビチャも頻繁にするようになった。それが誰のせいかなんてのは考えるまでも無い。
楽はしばらく自分が入力したメッセージを眺めていたが、いくら待ってみても一向に既読がつかないので大人しくアプリを閉じた。どうやら彼女は本当に仕事中らしい。
「仕事、か……」
そのキーワードが昨晩の記憶を呼び起こす。キスマークの話。ちゃかしたように見えて本心で心配している大和の表情。それから。
「…………紡の、彼氏」
無意識に、まるで水滴を零すようにぽつりと、楽は呟いた。その甘い響きは誰よりもまず楽自身の耳に届く。
紡の彼氏。紡の恋人。隣に立つ特別な一人。もしもそこに立てるなら──そこまで考えて、猛烈に頬が熱くなるのを自覚した。今ここに誰も居なくて良かった。特に天とかが居なくて本当に良かった。居たら間違いなくからかわれていた。
ちらりともう一度画面を見たが、やっぱり彼女からのメッセージは無い。楽は赤い頬のまま、はあ、と何に対するものかもわからない溜め息をつく。
実際のところ。
全く脈が無い、というわけでは無い。と、思う。
それは楽が彼女と過ごしてきた時間の中で感じた部分。楽と紡の心の距離は間違いなく、出会った頃よりもずっとずっと近くなっている。
当初の紡は、それはもう恐ろしい程に靡かなかった。どんな甘い言葉も口説き文句も『さすが抱かれたい男ナンバーワン』だの『後輩に優しい』だのと言って意に介さず、そのあまりの鉄壁っぷりに悩んだことは少なくない。
それでも諦める気のさらさら無かった楽は一生懸命アプローチを重ねてきた。少しずつ時間を掛けて、ひとつひとつ想いを伝えて。
その甲斐あってか、近頃は言葉もほぐれ、笑顔は親しくなり、時折嬉しい表情を覗かせてくれるようになった。以前では考えられないくらい、きちんと目の前の楽を見てくれていると思う。
けど、だからと言って。今すぐ告白だなんだと言うつもりも楽には無かった。今の彼女にとって一番大切なものがIDOLiSH7であるとはっきりわかるからだ。
だから、楽は焦らないことにした。ゆっくり時間を掛けて、彼女が本当に幸せになれる時まで急がない。少しずつでもきちんと想いが届くならば、そう。今はそれでいいと思っている。
不意に、コンコン、という音がした。
楽は思考の海から顔を上げる。スマホをジャケットのポケットへ滑り込ませ「どうぞ」返事をすれば、遠慮がちにゆっくりとドアが開けられた。そこから覗いた顔を見た瞬間、楽は思わず咽せそうになる。
「失礼します……あ、楽さん! お疲れ様です!」
鈴を転がすような、可憐な声だった。うさぎの耳みたいにふわふわした髪に、きらきら輝く瞳。バッチリ着込んだスーツがいつものイメージから良い意味でのギャップを生んでいる。その顔はつい先ほどまで楽が脳内に思い描いていた女性と寸分違わず同じであり。
「つ、紡? なんで」
楽が動揺のまま尋ねれば、彼女はにっこり笑って答えてくれる。
「こちらで撮影だと耳にしまして。近くまで来ていたので、ご挨拶に伺いました!」
マジかよ。夢じゃないよな。楽は自分の頬をつねりたい衝動に駆られた。もちろんそんなことはしなかったが、その代わりドア付近で立ち止まっている彼女の側へ番犬もかくやという速度で駆け寄った。久々に至近距離で見る紡はビジネスシーン向けの薄化粧だ。唇にほんのり引かれた淡い桃色に無駄にどきりとしてしまう。こちらを見上げる彼女の瞳に自分が映っているのに気付いて、どうしようもなく嬉しくなってしまった。楽は舞い上がる気持ちをなんとか抑え、それでも弾んでしまう声で言う。
「紡のこと考えてたら本人が来たから、マジで驚いた」
「私の、ですか?」
きょとんと瞬きする紡に、楽は「そうだよ」と頷いてみせる。
「最近顔合わせてなかったろ。会いたいって思ってた」
紡が息を飲んだ。みるみるその頬が紅色に染まる。かわいい。楽がしみじみ幸福を噛み締めていると、紡は葉っぱからぽつりと落ちる水滴みたいに微かな声で言った。
「……私も。久しぶりに楽さんにお会い出来て、とても嬉しいです」
目眩がした。あまりの幸福感で。
楽は自分で自分を褒めてやった。よく耐えた。抱きしめるのはさすがに不味いからな。
内心をなんとか顔に出さないよう注意しながら、楽は紡に尋ねる。
「……お前ひとりか? あいつらは?」
「あ、えっと。今日は打ち合わせだけなので、私一人です」
「そうか。もう帰るとこ?」
「はい。あ、これ。よろしければ皆さんで召し上がってください」
がさり。紡の手元で紙袋が音を立てた。受け取って軽く覗けば、せんべいの缶と思われる物が詰まっている。
「近くで購入したもので申し訳ないのですが……」
「なんで謝るんだ。嬉しいよ、ありがたく貰っとく。なあ、今時間あるか?」
楽は言いながら紡の肩に触れ、部屋の中──ソファの方へ促す。
「良かったら話し相手になってくれよ。マネージャーが戻ってこなくて暇なんだ」
紡からの差し入れは局のすぐ近くにある老舗せんべい店の詰め合わせだった。
テーブルの上にそれを開封し、控え室備え付けのポットで二人分のお茶を用意した。紙コップになみなみと注がれたそれを彼女の前にそっと置いてから、楽は会話を始める。
「最近どうだ? 忙しそうだけど」
紡は楽に礼を言ってお茶を受け取ると、
「ありがたいことに、たくさんお仕事を頂いてまして。嬉しい悲鳴です」
「そうみたいだな。和泉兄、バラエティでよく見るよ。あとは六弥のCMに……二階堂のドラマもクランクインしたんだろ?」
「わあ! うちの者のこと、見てくださってるんですね。嬉しいです……!」
「当然だろ」
紡のかんばせに、どんな花より美しい微笑みが咲いた。こんなに愛おしそうにありがとうございますと言う人間が他にいるだろうか。胸がきゅうきゅう鳴くものだから楽は慌ててお茶を口に含んだ。
「そう言って頂けて嬉しいです。……楽さんはいかがですか? お忙しいかと思いますけど、お風邪などは引かれてませんか?」
「へーき。至って健康だよ。体調崩すと天の奴がうるさいから気をつけてる」
やれやれと肩を竦めてみせれば、紡が楽しそうに笑う。
「九条さんは本当にプロ意識が高くて素敵です!」
「まぁな……けど、昨日はちゃんとうがい手洗いしたかとか、ストレッチしたかとか、イチイチ聞いてくるんだよ。そんでちょっとでも欠かすと、プロ意識が足りないんじゃない? だもんな」
楽が自分でも似てないと思うようなお粗末な物真似を披露すると、紡が大きく破顔する。
「ストレッチ、私も以前教わりましたよ!」
こう、身体を伸ばすんですよね。紡はお茶をテーブルに置いてから、不思議な体勢をとる。かわいい。楽はほんの少し。ほんの少しだけ天に感謝した。
「まぁ、天の話はいいよ。紡の話が聞きたい」
あんまり感謝しすぎると後が怖いと思った楽が話題を切り替えると、紡は「えっと」少し悩むようにする。
「最近何か印象深いこととか、あったか?」
楽がそう促せば、紡は考え込むようなそぶりを見せた。一生懸命悩んでる様も魅力的だ。楽が幸せな待ち時間を過ごしていると「そうですね……つい先日の話なんですが」と、紡は前置きした。
「大和さん主演の映画がテレビ放送されるということで、IDOLiSH7の皆さんと見たんです」
「集まって見んのか。二階堂がよく許したな」
「あ、大和さんは放映の途中で帰宅されまして」
楽はその時の大和の心境を思ってちょっと同情した。
「それでですね。その作品にはかなり激しめのラブシーンが入るんですが……」
……うん? 楽の中に何かが引っ掛かる。紡はそんな楽の様子には気付かず話を続けた。
「それを見た環さんが、なんといいますか……そういう経験があるか、なんてことを言い出されまして」
「……そういう経験」
楽の相づちが無意識に低くなる。眉間にぎゅうと皺まで寄せるとただでさえ人相が悪いと言われがちな楽はまるで睨み付けているかのよう。しかし手の中のお茶を眺める紡はそれにも気付かない。
「お恥ずかしながら私はあまりその、経験が無いので。大和さんにたっぷりからかわれてしまいました。最近はやられっぱなしも減ったと思っていたのですが、まだまだだなぁと思わされる場面でして」
それが最近だと印象深い出来事かなと。紡がそう締めくくる。
楽はお茶を一口飲んだ。冷めてきたそれは喉を温かく通り抜けて楽の心を落ち着けてくれる。
紡の話は間違いなく昨日大和が語っていた件だろう。多少……いやかなりオブラートに包んではいるが。しかしいくら紡がふんわり伝えたとしても、楽は環の言う『そういう経験』が具体的に何を差しているかも、大和がどうからかったのかも知っている。
紙コップをテーブルに音を立てて置くと楽は真剣な眼差しを紡に向けた。
「なぁ紡。嫌なら嫌って言っていいんだぜ……?」
脳内にどこぞの眼鏡の声が響く。これが俺らのフツーよ? 駄目過ぎるだろそんな環境。
「お前が言いづらいなら俺が言ってやろうか」
「え!? いえその、環さんも大和さんも悪気があったわけでは無いと思いますし!」
楽が思いの外深刻に受け止めたように感じたらしい。紡は慌てて二人を庇った。それに、と紡の言葉が続く。
「大和さんの言うことにも一理あるかもって思いました」
「二階堂の言うこと?」
「何事も経験だよ、と言われました」
そこで楽は思い出す。昨日の飲み会での本心の見えづらい男の言葉。からかっているように見えて伝えたいことは伝えているようだ。けどな。もうちょっと伝え方があるだろ。楽はそう思わずにいられない。
楽が難しい顔をしていることに気付いたらしい。紡がなんだか妙に明るい声で、
「楽さんは、そういう経験、豊富でらっしゃいますよね!」
「は!?」
突然転換した話に、楽は意表を突かれた。
「女優さんと撮影される時もとても自然で! さすが抱かれたい男ナンバーワンだなぁって思います!」
楽は誰が見ても明らかなくらい取り乱しながら待て待てと手を振る。
「いや、あのな。俺だって別にそんな経験──無いとは言わねえけど、慣れるほどじゃ」
一体何に対して言い訳しているのかわからないが、楽は一生懸命紡に主張した。
「そりゃ確かに俺も男だし、若い頃はそれなりだったけど」
「若い頃、ですか」
「違うからな!? 遊んでたとかじゃねぇから!」
言葉を重ねれば重ねるほど、不思議と泥沼に沈んでいくような気がする。そもそも一体なんの話をしていたのだったか。
沼の中で窒息しそうになっている楽に対し、紡はぽつりと独り言のように呟いた。
「皆さん、やっぱりお若い頃に経験されているんですかね……」
「紡」
「あまりそういう経験が無いから、いつまでも子供っぽいと言われてしまうんでしょうか」
なんて。そう言って紡は苦く笑う。
「姉鷺さんのような大人の女性に憧れるんですが、道のりはまだまだ長そうです……」
言うと、照れ隠しでもするように、あるいは苦みを飲み込むように紡はお茶を口にした。楽はそんな彼女を見て瞬きの間口を噤んだ。が、すぐに静かに、穏やかに、言葉を返す。
「俺は、今の紡も好きだぜ」
ぴくりと彼女の手が震える。楽の視線と彼女の視線がぶつかった。
「確かに経験は人を育てるだろうけど、焦るもんでも無いと思う。急がなくていいんだ。紡の速度でやっていきゃいい」
な? そう言って笑いかけてやれば、紡はその大きな瞳をさらに大きく見開いた。心なしか頬が赤くなっている気がする。楽がそう思いたいのかもしれないけど。
「そう、でしょうか……」
「そうだよ」
「……楽さんは、凄いですね」
紡の瞳が細められた。口元にはにかんだような笑みが浮かぶ。
「いつも嬉しい言葉をくださいます」
「……言いたい奴にだけだよ。誰にでもじゃない」
沈黙が降りた。壁に掛かったアナログ時計のかちこちという音だけが空間に満ちる。
「そ、それにしても、姉鷺さん戻られませんね」
静寂を破ったのは紡だった。楽はその空気の切り替えに乗ることにする。差し入れのせんべいを一つ手に取ると、ばりんと齧った。
「確かにちょっと遅いな」
「姉鷺さんにも出来ればご挨拶したかったのですが……」
紡がしょんぼりする。楽が常々思っていることなのだけど、紡はどうしてこんなに姉鷺に懐いているのだろう。いや、確かにめちゃくちゃ仕事は出来る。先輩として頼りにしているのも、まぁわかる。けれど、なんとなく複雑だ。
「いいよ、俺からよろしく言っておく」
ふと時計を見ればそこそこの時間が経過していた。あまり紡を拘束し過ぎるのも良くないか。
「あ、では私、そろそろ」
そんな楽の考えがまるで聞こえたように紡が言う。お茶の残りを飲み干して立ち上がるとゴミ箱に紙コップを捨て、ぺこりと頭を下げた。
「では、失礼しますね」
「ああ、ありがとな。話し相手になってくれて」
「お礼なんて。私も楽しかったですから」
楽も紡を見送るためにドアの近くまでやってくる。久々に会えた紡の最後の最後まで目に焼き付けておきたかった。
「またラビチャする」
「はい。お待ちしてます」
紡はそう笑って身を翻し、ノブに手を伸ばす。その一瞬、ふわりと揺れた髪の影。首筋に、楽は見つけた。え? 一瞬意味がわからなくて混乱してしまう。なんで? どうして? けれど無意識に、ばん、と音を立てた。それは紡の開けようとしたドアを楽が押さえた音で。紡が驚いたように振り返る。ドアと紡を挟むようにして立つ楽は目を大きく見開いていた。
「楽さん……?」
戸惑いをたっぷり含んだ紡の声を無視して楽はそっと手を伸ばす。ともすれば震えそうになるそれは紡の肩の上から髪のカーテンを退け冷たい控え室の明かりにその首筋を晒した。
──そこには、赤いしるしがあった。
温かな肌の上に、情欲を刻みつけた証が。
「あっ」
紡がハッとしたように身体を震わせ首筋を隠す。楽はその仕草にぼとりと感情を落としたような顔をして、低い低い声で尋ねた。
「……二階堂、じゃあ無いよな」
「え……?」
「和泉弟か? それとも、俺の知らない奴か」
楽は紡に覆い被さるように顔を覗き込む。
「楽さん……?」
紡が何事か言い掛けた矢先、コンコンコンと激しくノックの音。楽と紡がぎょっとして離れると同時に荒々しくドアが押し開かれる。
「んもお! 本当にどうかしてるわ!」
騒がしく入ってきたのは派手な化粧をばっちりキメた姉鷺カオルだ。
「これからはあそこの事務所との競演は全部NGよ! ……あら? あなた来てたの?」
ちょっとおかしな二人の雰囲気に姉鷺は小首を傾げる。
「なによ、痴話喧嘩?」
「えっ!」
「ちげぇよ」
ぴしゃりと言い伏せる楽に姉鷺はきょとんと、紡は戸惑いを浮かべた。が、楽にはそれに構えるほどの余裕は無かった。二人に背を向けてソファに戻り、どかりと腰掛ける。
紡が何やら姉鷺と話しているようだがそれも耳に届かない。さっきまで彼女の髪に触れていた手が思い出したように震える。逆の手で無理矢理握り締めて黙らせた。力を込めすぎて白く冷たくなるそれを楽はただただ無視して俯く。
彼女の白い肌に刻まれた赤い痕のことばかりが頭を埋め尽くした。
あまり経験が無いなんて言葉に安心していた。そんなものに意味なんてない。少し考えたらわかることじゃないか。
(脈が無いことはない、なんて)
思い上がりだった。勘違いだった。自惚れていただけ。楽が一人で紡の反応に舞い上がっていただけだ。時間を掛ければ彼女が自分のものになるなんて保証、どこにもありはしないのに。
(馬鹿かよ……)
本当に、馬鹿だ。
楽は失恋の痛みを噛み締め、ぐっと目を閉じた。
*
事務所への道のりを歩いていた。
もう日はとっぷり暮れていて、住宅街のいつもの通りは街灯の明かりに切り取られるように照らされていた。紡のヒールが立てるカツカツという音ばかりが耳に響く。静かだ。紡はほうと息を吐く。
今日はナギのCM撮影への付き添いとラジオ局での打ち合わせがあった。大物芸人がパーソナリティをつとめる番組にゲストとして二人ほど呼んでくれるということで、事務所に帰ったらスケジュールの確認をして折り返し連絡を入れなければならない。誰ならこの仕事で最大限輝くだろう──考えるだけでワクワクしてしまう。
そんなふわふわ軽い足取りの帰り道だったので、ついお土産を買ってしまった。限定いちごショート。今密かにSNSで話題の品だ。
「……いちごショート」
不意に、紡の脳内でTRIGGERが笑った。
完璧に整ったビジュアルとパフォーマンスで世間を圧倒する、紡たちの先輩アイドル。何故彼らを、というのは明白で、紡(とIDOLiSH7)がまだ本当に駆け出しだった頃、控え室でソファに座らされ味のしないショートケーキをご馳走になったことがあるからだ。触れられる程近くにTRIGGERが居るなんて信じられなくて、ガチガチに緊張したことを今でもよく覚えている。それ以来、ショートケーキにはそのイメージがついてしまった。
きっと当時の紡は夢にも思わないだろう。彼らとこんなにも親しくなるなんて。今の紡だって時折信じられなくなるんだから。
TRIGGERの中でも取り分け親しくしてくれているのは、リーダーである楽だ。
ミュージックフェスタにIDOLiSH7を推薦してくれたのも彼で、今なお紡たちに非常に親しくしてくれる。
本当ならそれだけでも奇跡みたいなのに、彼は時折、紡個人を誉めてくれることもあって。
もちろん楽は紡がIDOLiSH7のマネージャーだから良くしてくれているのだ。誰がどう考えたってそうに違いないのに、時々、本当に時々、それだけでは無いかもと──いや、そんなことあるわけない。紡は頭をぶんぶん振る。
「そういえば、楽さん、なんだか変だったな……」
つい先日控え室を尋ねた日のこと。最後のドアの前でのやりとりを思い出す。
立ち去ろうと紡の引いたドアを楽は後ろから押さえつけた。びっくりして見上げた彼の、感情が抜け落ちたかのような顔が目に焼き付いている。まるで氷で作られてるみたいに完璧で冷たいその姿。
けれど紡に触れた楽の指はきちんと熱くて──そこまで思い出して、顔から火が出そうになる。
「うう、きちんと絆創膏、貼っておけば良かった……!」
油断していた。髪で隠れるから良いだろうと思って。それにもう消えかけていると踏んでいたから。なのにまさか楽に見られるなんて! 恥ずかしい。とにかく恥ずかしい。
紡が一人悶々としていると軽快な音が響いた。鞄の中から主張するそれはスマホの着信音だ。紡は急ぎ端末を取り出すと、
「あれ? 大和さん……?」
そこには見慣れた名前が表示されている。二階堂大和。言わずと知れたIDOLiSH7のリーダー。はて、こんな時間にどうしたのかと首を傾げながら画面を操作し、通話を開始する。
「はい、小鳥遊です」
『あ、マネージャー? 悪い、今どこ?』
電話越しに聞こえてくる低くて落ち着いた声は、けれどどこか困った色を含んでいた。
「もうすぐ事務所です。どうかされたんですか?」
『あー、ちょっと困ったことになっちゃって……悪いんだけど、車とか出せる?』
車? 一体全体どうしたと言うのだろう。
「社用車が空いていれば出せると思いますけど……本当にどうしたんですか?」
『うーん、細かいことは会ったら説明する。本当に悪いんだけどさ、酔っぱらいを迎えに来て欲しいんだよ』
頭にべろべろに酔った大和の姿が浮かんだ。仕方ないなぁと紡は息をつく。
「大和さん、また飲み過ぎたんですか?」
『違うって。俺じゃないよ』
大和の声が一瞬途切れる。それはすぐ近くにいる誰かの顔を眺めたみたいな間だった。
そうして、大和の出した名前に、紡は思わず息を飲む。
『迎えに来て欲しいのはさ──八乙女なんだ』
大和から指定されたのは都心部から少し外れた駅近くの極めて一般的な飲み屋だった。さすがに個室ではあったけれど仮にも芸能人が使うような場所とは少し違うような気がして、紡はそこに本当に楽が居るなんて信じられなかった(なんとなく大和には似合っている気がした)。
けど、そう思っていられたのは事実を目の当たりにするまでで。
「おー、悪いな」
赤ら顔で手をひらひら振るのは大和だ。その眉はへにょりと下がっていて傍目にもお酒がたっぷり入っているのがわかる。
そしてその隣でぐったりテーブルに突っ伏しているのは銀色の髪の誰かだ。
一目見るだけでただ者ではないとわかるすらりと長い手足をだらしなく放り、腕で作った枕に突っ伏している。その髪の間からちらりと覗く耳は大和と同じと思われる理由で真っ赤になっていた。
「ほ、本当に楽さんですか」
「こんなイケメンごろごろ居ちゃたまんないよ」
あ、蕎麦屋はカウントしないから。なんて謎の断りを入れる大和の傍へ寄ると、むわりと濃密なアルコールが漂った。
「大和さん、凄くお酒臭いです」
「うーん、ちょっと飲み過ぎた」
大和は決まり悪そうにがりがりと頭を掻いてから、おら起きろー、なんて言って楽をゆさゆさ揺する。けれど彼は全く起きる気配が無い。僅かにむにゃむにゃと何事か抵抗したと思えば、また動かなくなってしまう。完全にただの酔い潰れだ。これが天下のTRIGGERのリーダーだなんてきっと目の前に居ても信じない人が居ると思う。
「だーめだ、起きやしねぇ。このまま運ぶか」
「え、でも何処に?」
紡が戸惑いながら尋ねれば大和は一瞬だけ考え込む素振りを見せた。ちらりと視線を泳がせて、それから紡に戻す。
「八乙女んちまで行こう。俺が場所知ってる」
「ええっ、でも……姉鷺さんか誰かを呼んだ方がいいのではないでしょうか」
紡が至極まっとうな返事をすると、大和は不意に真面目な顔つきになった。紡がその表情にきょとんとすると、なにやらにょもにょと「俺がけしかけたようなもんだしなぁ」誰にともなく呟く。
「頼むよ、お兄さんのお願い。八乙女を送ってやって」
懇願する声だった。そこには普段彼が纏っているおちゃらけた仮面の姿は無い。それがアルコールが入っているからなのかそれとも別に事情があるのか紡にはわからない。わからないが、そんな顔で、そんな声で言われたら嫌だなんて言えるわけがない。
「わかりました。車を回してきますね」
「助かる。ありがとなー、紡」
ふにゃりと笑う大和は本当に優しい顔をしていて、何か裏があるとしても大丈夫だろうと紡に思わせた。「任せてください!」一声掛けると踵を返し急ぎ駐車場へと走る。
小鳥遊事務所唯一の社用車である白いバン。その後部座席には今、むにゃむにゃと微睡む楽が座っていた。彼の意識は未だ夢の中にある。時折、ううん、だの、つむぎ、だのと零すのを聞いていたのは一生懸命楽の大柄な体躯を運び込んだ大和だけだ。
紡はそんな後部座席の事情に気付かないまま車のエンジンを掛ける。ばるるると豪快な音を立てて紡の頼れる相棒が目を覚ました。よいこらしょと大和が助手席に乗り込むのを確認してからギアを入れる。
「お兄さんナビ、はーじまーるよー」
先ほどまでの真面目な雰囲気はどこへやら。大和は何やら楽しそうに口ずさんでいる。紡は大和のナビに従ってすっかり夜も深まった街の中を走りながら、
「楽さんっていつもあんな感じなんですか?」
「あんなって?」
わかってるくせに大和は聞き返してくる。
「その。酔い潰れちゃうくらい飲まれるんです……?」
そこ右ね。自分もたっぷり飲んでいるだろうに、しっかりナビをしながら大和は「うーん」少し唸った。
「いや、今日は完全に飲み過ぎだ。いつもはあんなにならないよ」
「そう、なんですか」
紡は大通りを右折しながらぽつりと返す。
そもそも。楽が酔ったところを紡はほとんど見たことがない。
酒を口にしたところ自体は幾度となく目にしてはいるのだが、酔っているといえるくらい飲んでいるのは見たことがない。以前、酔ったらどうなるかという話になった時も結局は教えてもらえなかったし、酒で彼が失敗したという話もあまり耳にしない(正確に言えばたまにTRIGGER最年長の十龍之介が漏らす情報があるにはあるのだけど、失敗という程では無いと思う)。
だから初めて目にする楽の泥酔姿に戸惑わなかったと言えば嘘になる。
「普段はこうならないんですか……」
紡は大和の言葉を反芻する。いつもはこんなに深酒しないってことは、今日は深酒したってことだ。それだけの理由が何か、あるのだろうか。
ふと頭をよぎるのは先ほどの考えの続き。様子がおかしかった楽のことだ。氷のような表情と熱い指。ソファに腰掛けた背中は何故かしょんぼりしているように見えた。
「何か、あったんですかね……」
心配が口から転び出たような声をしていたと思う。言ってから自分でも戸惑って「なんて、私がきいていいことではありませんよね!」慌てて取り消せば、隣の大和の視線をぴたりと感じた。
「心配? 八乙女のこと」
紡は運転しているので当然大和の顔は見えない。ただその声には優しい色がついていた。だから紡は素直に答える。
「はい。……何かあったなら、力になりたいです」
「そっか」
沈黙が降りた。バンのたてるエンジン音だけが身体に響く。
「きいていい?」
ぽつりとそこに声が降る。大和の低くて落ち着いた声だ。
「紡ってさ──彼氏居るの?」
「へ!?」
急に。急に何を言い出すのだこの人は! 幸い運転には影響は無かったものの、紡はまだ新米ドライバーなのだから変なことを言わないで欲しい!
「もう! 突然何言い出すんですか!」
「いや、気になっちゃって」
「居ないってこの間も言ったじゃないですか!」
ぷんすか紡が湯気を立てると、はははと笑い声。
「そうだよなぁ。全く取り越し苦労だよ」
「何がですか!?」
「んー、なんでもないよ」
あ、そこ真ん中ね。大和が妙に上機嫌になった理由が紡にはわからない。
楽のマンションは芸能人が多く住むという高級住宅街の一角にあった。
地下の駐車場からセキュリティの頑強なエントランスを抜けてエレベータで階を上がる。
大和がひいひい言いながら楽を担いで彼の部屋の前に着く頃に、ようやく楽はうっすら目を開けた。
「あ……? どこだここ……」
「お前さんの家だよ。鍵は? どこに入れてんの」
大和が楽を支えているので、鍵は紡が取り出した。他人の──しかも異性のジャケットを探るのは紡にはかなり刺激が強かったが、今はそんなことを言っていられない。
がちゃりと鍵を開けるとドアを引いた。大和がよいしょと楽を運び入れ玄関先に一旦座らせる。紡も二人に続いて足を踏み入れた。ぱたんと後ろでドアが閉まる。
楽の部屋は、一言で言えばとても片付いていた。
男性の一人暮らしで、しかも仕事が多忙も多忙だと思うのに非常によく管理されている。玄関に雑誌が纏めて縛ってあるのがなんだか妙に生活感があって、かわいいなぁと思ってしまった。
(楽さんのお家)
はたと。我に返った。
そうだ。成り行きでここまで来てしまったけれど。ここは紛れもなく八乙女楽の自宅なのだ。玄関に揃えてある革靴も、雑誌も、スリッパも、全部全部楽のプライベート。そう思うと部屋の空気に楽の匂いがする気がする。いや、何考えてるんだろう!
「ど、どうしましょう大和さん……」
「うん?」
楽の靴を脱がせていた大和に紡は真っ青な顔で言う。
「今更緊張してきてしまいました……!」
「ホント今更だな……」
半眼で言われてしまった。そんなことよりこの大男を運ぶから手伝って。大和に一蹴されてしまう。
楽をリビングのソファ(革張りの黒くて高そうなやつ)に横たえると、大和はまるで我が家であるかのようにキッチンへ向かう。それからコップになみなみと水を汲んできて、
「これ、飲ませといて」
言うが早いか自分はリビングを出て行こうとするものだから、紡は焦って彼を追う。
「大和さん、何処行くんですか」
「ちょっとコンビニ。買い出ししてくるから八乙女みといて」
決定事項のようにすぱっと言い渡すと、大和はあっと言う間に玄関から出て行ってしまった。ぱたん。後にはコップを手にした紡と、夢の世界にどっぷり浸かっている楽だけが残された。
「と、とりあえずお水を」
あれだけ体内にアルコールを摂取したなら相当薄めなければ明日に残ってしまうだろう。楽の明日のスケジュールはわからないが、二日酔いになるかどうかは紡に掛かっているに違いない。使命感を胸に燃やしながら紡は楽の元へ戻る。
すると、楽の体勢が先ほどまでとは明らかに違っていることに気付いた。まだわずか揺れる頭がソファ越し見える。急ぎ近寄れば、それでもまだぼんやりした視線が紡の上で止まった。
「……つむぎ……?」
「はい。小鳥遊紡です。楽さん、お水ですよ」
ソファの前に膝をついて落とさないよう楽の手にコップを握らせてやれば、彼は大人しく口を付けた。ゆっくり水が体内へ消えていく。たっぷり入っていたコップの中身を空にすると彼は小さく息をついて、
「……ところで、なんでお前、俺んちに居るんだ……? やっぱ夢……?」
「夢ではないです。僭越ながら車で送らせて頂きました。あ! 大和さんも一緒ですから安心してくださいね」
何が安心なのか自分でもよくわからないまま紡は状況を説明する。
楽は最初言葉の意味がわからないかのようにぼんやりした表情で瞬きしていたが、まるで氷が溶けるようにゆっくりと、その表情が変化し始める。切れ長の目は大きく見開かれ、はくはくと口を開けたり閉じたりまた開けたり。そうして最終的には「あー」大きく呻くと片手で目元を覆ってうなだれ、ぴたりと動かなくなってしまった。
「楽さん? どうされましたか……あ! もしかしてお加減が!?」
吐くなら洗面器を! 紡は慌てて腰を浮かせたが「いや……」楽の声に動きを止める。
それはとても暗鬱な声だった。まるで今日でこの世界はおしまいだよと知らされた人みたいな。
「……悪かった。手間、掛けさせちまって」
「いえ……」
中途半端に浮かせた腰をゆるゆる下ろしながら紡は応える。
実際、紡は手間だなんて思ってはいない。酔っぱらった人の看病なんて大したことではないから。けど、もしかして逆に気を遣わせてしまったろうか。
「あの、本当に気になさらないでください。そんな大したことはしてないですから」
そう言い募るも、楽は顔から手を退けようとはしない。どころかどんどん気配が曇っていくものだから紡はとてもハラハラしてしまう。
「ほんっと、かっこわりぃ……」
楽は誰にともなくそうぼやく。ちらと見える手の下の顔にはべとりと苦々しい笑みが乗っていて、紡はどうしてだろう、胸がずきんと痛むのを感じた。
「お前の前ではせめて格好良くって思ってたんだけどな。ホント、うまくいかねぇ……」
後半は独白のような囁きになった。それが本当の本当に落ち込んでいる人のそれに聞こえて、考えるよりも先に言葉が出た。
「私は……ちょっと格好悪い楽さんも、好きですよ」
ぽそりと囁いた声を聞いて楽ががばりと顔を上げた。その口から「えっ」という気の抜けたような声が漏れる。紡はハッとして自らの口を押さえたがもちろん後の祭りだ。
「紡……」
「い、いえあの! 違うんです! 決して楽さんが常日頃から格好悪いとかそういう意味ではなく! ただ、その」
あわあわと弁解した言葉が着地点を求めて頭の中をぐるぐる彷徨う。
「『TRIGGERの八乙女楽』さんよりも身近に感じると言いますか、そういう楽さんを知ることが出来るのが嬉しいと言いますか……」
うう。自分は何を口走っているのだろう。伝えたい言葉がうまく形にならなくて紡は内心地団駄を踏む。
「と、とにかくですね……! あまり落ち込まないでくださいと言いたくて」
そこで。紡の言葉が静止する。
楽が身を乗り出して手を伸ばしてきたからだ。えっ、と思う間も無く、その白くて綺麗な、けれどごつごつした間違いなく男性の手が紡の肩の上で髪をひと撫でする。その感触に息を飲む間もなく、その手はすぐさま髪をくぐり抜けて首筋に触れた。反射的に身体が跳ねる。彼の手が、指先が、熱い。
「あんな痕、つけといて──」
低く低く楽が囁く。顔が近い。その整った顔はあの時と──先日控え室で見た時と同じくらい表情が抜け落ちていて、恐ろしく綺麗だった。でも今日はすぐに気付いた。まるで燃えるように強くて、一瞬で射竦められてしまうような瞳の光に。
「そんな期待させるようなこと、言うなよ」
「楽、さん」
「正直、きつい」
楽の指が紡の肌をさらりと擦る。ぞくぞくするような甘い痺れ。そんな感覚始めてで紡は頭がパンクしそうになってしまう。
「あの、楽さ、くすぐったいですッ……」
振り払うことが出来なくて震えるまま声に出せば、けど楽はやめるどころかまるで何かを探るように手のひら全体で紡の首筋を撫でる。その位置。その場所ばかりを何度も。どうして──そこで気付く。あんな痕? あんな痕って、もしかして。位置から考えてそれはひとつしか思い当たらない。
紡は思わず叫んでいた。
「お、お恥ずかしいところをお見せしてしまい、申し訳ありません!」
その剣幕に楽の指先が止まる。紡は羞恥で顔を真っ赤にしながら、
「髪で隠れると思って油断してしまいましたっ……まさか楽さんに見られるなんて」
「……まぁ、俺じゃ無かったら気付かなかったかもな」
「うう、本当にお恥ずかしいです、あんな、あんな」
笑われるのを覚悟して、ぎゅうと目を閉じた。
「派手な虫さされなんて──!」
空気が、凍り付いた。
まるで時間が止まってしまったかのようにぴたりと楽が固まる。
「………………むしさされ?」
「はい……」
楽の声が何故か呆然としている。でもそれも当然かもしれない。いくらなんでもあんなに赤くなっているところを隠さないのは女としていかがなものか。まだ紡は裏方だからこの程度の指摘で済んでいるのだろう。
「今後は気をつけて参りますので何卒ご容赦を……!」
「むしさされ……」
「大きい、蚊でした……」
紡がそのとても大きな蚊に刺されたのは、寮で大和出演の映画を見た日だったと思う。遅くに帰宅してから台所で洗い物をしていた紡の、髪を結い上げた首筋は今思えばとても無防備だった。そこをぶっすりとやられた。気付いた時にはもう遅くみるみる赤く腫れ上がっていて。
「薬も塗ったんですけど、すぐには赤みが引かなくて……」
「…………」
「次からはこんなことの無いよう気をつけます……」
しゅんと紡が反省すれば楽の手がするすると離れた。その手を視線で追いかけてそのまま顔を見れば、彼はなんとも言えない複雑な表情をしている。
「……あー」
がりがりと乱暴に頭を掻き、それからぎゅきゅっと眉間に皺を寄せた。その口がぽつりと、
「……キスマークだと思ったんだ」
「え……」
なんて? 紡がきょとんとするのに楽は非常に気まずそうに繰り返した。
「だから、キスマークだと……思って。お前にそういう相手が居るのかと」
瞬き二回。意味を飲み込んだ紡の顔からぼふんと湯気が立った。
「ち、ち、ち、違います!」
思わず大きな声を出してしまった。
「やだ、そんな風に見えてたんですか、恥ずかしい……!」
顔が熱くて死にそうになりながら紡は一生懸命弁解する。
「違います、違いますから……!」
「ああ……」
「ただの虫さされです! そもそもそんな人、居ませんし……!」
熱すぎる顔を押さえて紡がぶるぶるしていると「そうか」なんて声がした。羞恥から勝手に出てきた涙越しに見てみれば、楽が肩を震わせている。段々と大きくなったそれは、やがて耐えきれなくなったように爆発した。
「なん、なんだ! はは、ははは! 馬鹿みてぇだ! あはははは!」
「楽さん……?」
「わり、ツボに……っははは、虫さされって! あっはははは!」
ひーひー言いながらごろんと笑い転げて楽はソファに突っ伏した。それでもまだ収まらないのかぐぐもった笑い声がする。
その様子があんまりに嬉しそうで、紡はホッとしてしまう。良かった。冷たいくらい綺麗な楽ももちろん好きだけど、熱の通った彼も、紡はとても好きだから。
でも、いくらなんでも笑い過ぎじゃあなかろうか。
「楽さん笑い過ぎですっ」
紡が、もおお! と膨れながら言えば、
「悪い、なんか、止まらなくて……」
楽はゆっくり身体を起こす。笑い過ぎて目尻に貯まった涙を拭いながらそれはそれは晴れやかな笑顔をこちらへ向けた。
「悪かった。笑い過ぎた。ホッとしちまって」
そう言う彼の顔は穏やかで優しい。
「ホッとしたんですか……」
「そう。ホッとした。すげーホッとした」
どうして? と、聞きそうになってしまった。
どうしてキスマークじゃなくて、虫さされだとホッとするんですか。そう尋ねそうになって──紡は急ブレーキを掛ける。
「……そういえば、二階堂居るって言ったか?」
「は、はい。コンビニに行くって」
「そっか」
茶でも入れといてやるか。楽はそう言って立ち上がる。その後ろ姿を見送りながら、紡は胸を押さえた。
危なかった。勘違いも甚だしいことを、聞いてしまうところだった。
虫さされで良かったなんてそんなの、まるで嫉妬しているみたいだなんて。思ってはいけない。いけないのだ。
**
「二階堂」
掛けられた声に振り向けば、予想通りの人物が立っていた。
高い身長に恐ろしく整った顔立ち。言わずと知れたTRIGGERのリーダー、八乙女楽だ。
大和は立ち止まると「よう」笑顔を覗かせる。
スタジオの廊下だった。大和は雑誌のインタビューを済ませた帰り。楽はどうやらこれから撮影のようだった。
「今日は一人か?」
楽が大和の周辺に目を配りながら尋ねてくる。大和はにたりと嫌な笑みを浮かべた。
「残念、今日はお兄さん一人です」
言うとやれやれとわざとらしく肩を竦めてみせる。
「あの時はホント死にそうなくらい荒れてたくせに、すぐこれだ」
「う、うるせぇ! いいだろ別に!」
楽の顔が真っ赤になる。
大和の言う、あの時、とは。先日楽と二人で飲んだ時のことだ。
意中の彼女──小鳥遊紡に別の男のつけたキスマークがあると勘違いした楽は、それはもうべろべろのぐだぐだに荒れた。これが抱かれたい男ナンバーワンかぁとしみじみしてしまうくらい、ただの失恋した一人の男だった。さすがの大和も心配になるほどに。
「しっかし、八乙女がこんなに紡に惚れてるとはなぁ」
大和がちゃかすように言ってやれば、楽はその綺麗な顔に何言ってんだという表情を浮かべ、至極当然のように宣った。
「あんな良い女、惚れて当然だろ」
──ああ、これだよ。大和は思う。こういうところが、きっと。
「そうだな。うちの自慢のマネージャーよ」
「くっそ。自慢かよ」
「もちろん。ま、頑張れ。フられた時は慰めてやるよ」
「お前な」
笑えないだろ! と、楽ががなるのに、大和は大きく破顔した。